2017/08/21

AIが作成した小説から人工知能の未来を考えてみます






1 誰にでもなれる人類最後の職業・小説家



誰にでもなれるという意味で、人類最後の職業とも言われる作家稼業ですが、Webの発達で参入障壁が低下し、世の中には様々な小説が溢れ、競争は激しさを極めています。

この混沌とした状態の中に、社会へと急速に広がる人工知能の書いた作品が参戦してくるとなると、未来はどのように進んでいくのか予測がつきません。



2 世に出始めたAIの書いた小説



実際に、AIによって書かれた小説は誕生しており、その中でも、公立はこだて未来大学を中心とした、


きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ


が知られています。

開発当初は、文章かストーリーのどちらかをAIが作成するのみで、人間の手を借りない創作は不可能でしたが、2016年に完成した、


人狼知能能力測定テスト」


という題の作品は、文章とプロットの両方をAIが作成し、正真正銘のAIが完成させたものになります。

では、Web上で公開されているこの短編を、冒頭から一部引用してみます。



人狼ゲーム。それはプレイヤーが村人と人狼に分かれて行うゲーム。人狼は 正体を隠して村人の中に紛れ込んでいる。プレイヤーは全員で昼間に会議をし、 紛れている人狼を見つけ出して処刑する。夜になると人狼は本性を現し、ひっ そりと村人を襲撃する。処刑できるのは 1 日に一人で、誰を処刑するかは全員 で投票を行って決める。人狼が襲撃できるのも 1 日に 1 人。人狼は夜になると 村人を一人指定して殺害する。人狼をすべて見つけ出し、処刑すれば村人の勝 利。人狼の人数と村人の人数が同じになったら、村人は人狼に対抗できないと 見なされ人狼の勝利。





全文を読んでみると、感情のようなものが見当たらず、整合性が取れているだけのような気もします。



3 長足の進歩を遂げる人工知能技術


しかし、長足の進歩を遂げるこの世界では、今後精度が向上していくことは間違いないでしょう。

将棋の世界では、若き天才と称される
藤井聡太君が脚光を浴びていますが、トッププロの佐藤天彦名人が、コンピュータ将棋プログラムPonanza(ポナンザ)に敗れ、また囲碁の世界でも、コンピュータ囲碁プログラムのAlphaGo(アルファ碁)が、世界最強の棋士である中国の柯潔(カケツ)九段に勝利を収め、衝撃が世界を駆け巡りました。

このように、ここ数年で飛躍的に性能が向上している人工知能ですが、その理由は、ディープラーニング(深層学習)と呼ばれる技術が大きく関与しています。

従来の人工知能は、人間が対象から特徴を抽出し、その法則をソフトに読み込ませることが初期設定に必要不可欠な条件でしたが、ディープラーニングでは、認識能力が劇的に向上し、ランダムに与えられた情報から自ら法則を導き出し、さらに試行錯誤を繰り返し、修正をしながら新たな法則を作り出すことができるとのことです。




4 言葉の意味を理解するAIの登場


そしてこのディープラーニングによって、今まで不可能とされていた言葉の意味を理解するソフトが開発されたというのです。

日本ディープラーニング協会理事長の松尾豊氏によると、現在使われている自動翻訳のソフトは、言葉の意味を理解しておらず、その原理となるものは、一単語ごとに変換率の高い言葉を選び出し、ただ当てはめているだけなので不自然な文章になりますが、いま開発が進むソフトは、文章から映像、映像から文章に変換できるというのです。

このまま開発が進めば、近い将来に言語の壁が大きく撤廃されることが予想され、そのとき、小説の市場が世界に開かれることとなります。




5 世界に開かれる小説の市場


アフリカの僻地に住む村人が、中国の企業が売りに出す50ドル以下のスマホを手にし、あなたの小説を読む時代がやってくるかもしれません。

そのときの小説の書き手は、世界中のプロとアマチュア、そしてAIであり、三者三様の入り乱れた闘いになることでしょう。

コンピューターは、疲れを知りませんから量産も可能です。


そうなれば、開発者は左団扇(ひだりうちわ)でソフトに小説を書かせ、あとは書店や電子書籍で売るだけですから、まさに打ち出の小槌となります。

映画化・ドラマ化される作品が目白押しとなり、出版不況の打開策として、各出版社がソフトの開発に心血を注ぐ時代が、もしかしたら訪れるかもしれません。

しかし、高度に人工知能が発達したとして、果たして優れた小説を書くことができるのか、という疑問が沸き起こります。



6 芸術における美の普遍的な価値基準


まず、芸術といった諸々の美について、普遍的な価値基準はないとも言われますので、優れた小説を定義し、最初に法則を設定する作業が困難になることが予想されます。

美について表した言葉に、


美は見るものの目に宿る。

Beauty is in the eye of the beholder.


というものがあるように、美醜や優劣という価値は、特に文化や時代によって大きく変わってきます。



7 女性の美について



例えば、エチオピアにムルシ族という部族がいますが、ここの女性たちは、「デヴィニャ」と呼ばれる変わった様式を美の基準としています。

それは、下唇に穴を開け、丸い板をはめ込み、徐々にその穴を広げていくのですが、一見すると不便で不格好な皿のような板が大きければ大きいほど、その女性は美しいとみなされ、結婚の結納に当たる牛の数が増えるというのです。

元々は奴隷として売られないため、あえて醜くしたのが始まりとされ、現在ではそれが美に転じたようです。

これは恐らくその醜さが、奴隷貿易という理不尽なものに対する抵抗を示す、気高さの象徴だったからと推測されますが、美の精神的作用といった一面を覗かせています。

また、過去の中国では足の小さい女性が美しいとされ、歩行障害や健康への影響があったにも関わらず、わざわざ足を小さくする「纏足(てんそく)」と呼ばれた風習が長らく続きました。

このような女性の美という定義一つ取ってみても、基準は様々です。



8 優れた小説の定義とは



ではここで、少し難しい問いですが、優れた小説を定義してみます。


「ストーリーに一貫性があり、緻密な論理によって物語が支えられ、様々な具体的な描写が、著者の主張する抽象的なテーマに収束する作品」


「話の筋は不条理だが、その具体的な描写が、現実世界の抽象的なテーマに収束する作品」


「芳しい夢の世界へ誘ってくれる、ファンタジーやSFの作品」


「アッと驚くような結末を持つ作品」


「人間のおぞましい欲望が描かれ、ヒトの愚劣さに戦くと共に、読者にもその悪が潜んでいることを知らしめ、絶望の淵へ落とされる作品」


「人間の高潔な精神や残酷な結末が描かれ、カタルシスを得られる作品」


「比喩や描写などの表現力が抜きん出ている作品」


少しまとまりがありませんが、私の考える優れた小説とは、以上の項目が絡み合い、感情移入も含めて小説世界に没入できる作品になります。



9 小説の描写について



この中で、描写に焦点を当ててみたいと思います。

小説における描写とは、「景色を描き出す情景描写」「人物の姿形を描き出す人物描写」「人物の心の内を描き出す心理描写」などがありますが、ここでは、情景や人物などの外に現れて目に見える描写と、人間の内面など目に見えない描写に便宜上分けたうえで、目に見える描写について考察してみます。

例えば、作者が天気を表す場合、晴れや雨についての記述を直接または間接的に描きますが、我々人間は、その描写を単なる情景の説明としてではなく、文章の中に意味を見いだすことができます。

単純なものだと、
快晴は爽快を表し、雨は、雨乞いを必要としない現代の日本では寂しいや悲しいを表したりと、優れた書き手は、その描写から登場人物の心情や場面の雰囲気を巧みに表現します。




10 言外の意味をファジーに読み取って統合できる人間の能力



しかし、ここからが本題です。 


嵐を例に取ると、嵐とは、豪雨と暴風が入り乱れた状態のことですが、文字通り波瀾を表す言葉でもあります。

そのため、泥沼の不倫劇が描かれているストーリーに嵐の文が登場したら、これから一悶着あることを読者は容易に想像することができます。

しかし、ある作品で主人公が野心家の場合、そこに嵐が記されていたら、これから訪れるであろう波乱には違いないですが、迎え撃つ意味も出てきます。


さらにはその主人公が、行動は抜け目のない男だが、内面には繊細な脆(もろ)さを抱えているとしたら、その嵐には少し不安な意味すらも含まれてきます。

このように、人間は様々な直接的・間接的な描写から、言外の意味をファジーに読み取り、統合させることができます。

さらに言えば、その野心家の主人公に先ほどの不倫劇が合わさると、その嵐の文はどこに掛かるのかという問題も出てきますが、人間は都合よく取捨選択し、判断することができます。

AIの基本原理は、突き詰めれば右か左かを選択していくものと言われていますので、状況によって異なる言外の意味を、人工知能はファジーに把握できるのかという問題が出てきます。

できないのであれば、それらを表出することもできません。

いやもしかしたら、人間の想像を超えてAIが発達し、できるようになるかもしれません。



11 感情を持たないAIと人間の熱狂(エンスージアズム)



正直なところ、未来がどうなるかは、誰も予測がつきませんが、一番の本質は、やはりコンピューターに感情がないことでしょう。

優れた芸術作品には、創作者の激しい精神の格闘が内蔵されています。

作品から迸る創造者の熱狂(エンスージアムズ)が、鑑賞者の感情を揺り動かします。

作家のカレル・チャペックは、作中の人物に次のように言わせています。


あらゆる芸術は露出(exhibitionism)である。


芸術的創造とは神聖なるエゴイズムである。



引用参考 ある作曲家の生涯 P58 カレル・チャペック



ギリシアの哲学者・アリストテレスも、次のような言葉を残しています。


わずかな狂気も交らない天才はいない


つまり、AIには精神が存在しないのですから、精神から派生する著者の雄叫び・狂気・エゴイズムといったものや、登場人物の喜怒哀楽を真に表出することはできず、出来上がった小説は、「仏作って魂入れず」になってはしまわないでしょうか?



12 最適化の先に鉄腕アトムやターミネーターは誕生するのか?



ただし、人工知能研究者の多くは、最後はやはり鉄腕アトムやターミネーターを作り出したいと語っています。

人工知能の父・マービン・ミンスキーとも若い頃関わっていた札幌市立大学学長・中島秀行さんは、感情を持ち、自己を客観的に認識するメタ認知を備え、自ら目的を定め、その目的に向かって推論するメタ推論を備えたロボットを作り出すことが究極の目的だと語っており、私自身も人工知能が書いたトンデモナイ小説を読んでみたいとは思います。

今の人工知能技術は、言ってみれば効率化に重きが置かれています。

もちろん、その効率化や合理性による利便性は無視できず、特に安全性が高まるといった実装に関しては大いに歓迎すべきことです。

そして当然ですが、それら最適化による社会課題の解決も求められていることです。



13 心が動くときに感じる我



しかし人間は、すべての物事を杓子定規に効率や合理優先で割り切って処理することは出来ません。

なぜなら、人間には感情があるからです。

人間にとって、ストーリーのある感情が入り乱れた小説を読んでいるときと、家電の取扱説明書を読んだり、家電を機械的に操作しているときを比較した場合、どちらがワクワクを感じ、どちらが自分の中に何かが湧き起こるかは明らかです。

モノからコトへ消費が移っていると言われるように、消費が物質的な物から精神的な事へ移り変わっている理由は、単に物が溢れているという以外にも、人間が本性を取り戻したからと言えるはずです。

つまり人間は何かを思い、感情を揺り動かされた時にこそ、我ありと自覚するのだと思います。

哲学者のデカルトが導き出した、


我思う ゆえに我あり


ではないですが、思いや感情があるからこそ人間であるならば、また、芸術など様々なものの美醜や優劣に感情が深く関わってきたとするならば、最適化や効率化による改善の先にある、人工知能に感情を乗せ、人間と心を通じ合わせたその時こそ、真の社会実装を果たしたと言えるのかもしれません。





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